円谷幸吉との思い出を語る君原健二=北九州市で |
二人きりの選手控室。好敵手が絞り出した決意は、今も君原健二(78)の耳から離れない。
「メキシコで自分はもう一度、メダルを取る。国民との約束なんだ」
メキシコ五輪を翌年に控えた一九六七(昭和四十二)年五月、広島市であった全日本実業団対抗陸上選手権。円谷幸吉と君原が走った最後の大会となった。
円谷は二日間の大会で5000メートル予選と決勝、1万メートル、2万メートルに出場。「二日間でそんなに走る人はいない」。君原は、がむしゃらな円谷に不安を覚えた。
「国民との約束」とは。円谷は六四年東京五輪マラソンで銅メダルを取りながらも、報道陣に「メキシコではきっと雪辱を果たしたい」と明言している。
「国立競技場で、国民の面前で抜かれてしまったことへのおわび」と君原は解釈している。過剰な責任感。八幡製鉄(当時)に在籍していた君原は「自衛官という立場が大きく影響したと思う」と付け加える。
「忍耐」を座右の銘とした円谷だが、その体は悲鳴を上げ始める。
自衛隊体育学校の後輩だった白倉和義(76)は、明らかに腰が落ちた、この頃の円谷の走りを思い出す。「俺らと競い合っているようでは」と内心思うレベルに落ち込んでいたが、円谷は「大丈夫、大丈夫」としか言わない。
それが両足アキレス腱(けん)断裂に加え、椎間板ヘルニアに至る重症とは、この年八月の手術でようやく知る。入院は三カ月にも及んだ。
原因は円谷が五、六歳の頃にさかのぼる。兄の喜久造(87)によると、番犬の秋田犬を散歩中、引きずられて転倒し腰を強く打ち、左右の脚の長さが変わってしまった。
既に東京五輪前、円谷はゆがんだ腰に「さらし」と呼ばれる幅広の布を巻き付けて走っていたと、当時の練習相手だった宮路道雄(82)は明かす。
故障や不調を訴えることは「弱音」。この頃プロ野球では、連投続きで「権藤(ごんどう)、権藤、雨、権藤」の流行語を生んだ中日の権藤博が、三十歳手前で現役末期を迎えていた。
「命まで取られやせん。行け」。ルーキーの年、監督に命じられるままに全百三十試合の半分以上に登板。肩を痛め、投手人生を事実上、四年で終える。「それが仕事だから」。野球殿堂入りした八十一歳は、そんな時代を振り返る。
「倒れるまでやる。どこかで周囲が『やめろ』と言ってやらないと」。兄の喜久造が語る円谷像と重なる。
メキシコ五輪イヤーの六八年が明けた。退院した円谷は福島県須賀川市の実家に帰省する。
親族がそろう宴席。一人すっと離れ、電球のない部屋の闇に向かい座っていた円谷を、姉の岩谷富美子(85)は覚えている。
姉に促され、宴席に戻った円谷は歌い始める。
「甲斐(かい)の山々 陽(ひ)に映えて
われ出陣に憂いなし」
自らを奮い立たせるような勇壮な歌詞。三橋美智也の「武田節」だった。どこへの出陣なのか。富美子を含め、特段の異変を感じることはなかった。
円谷は、正月料理の締めとなる山芋ご飯「三日とろろ」を口にし、四日に東京に戻る。七日朝、円谷は体育学校の練習に姿を見せる。
トントン。陸上班の部屋の窓をたたく弱々しいノックに、後輩の白倉が窓を開けた。大声で「おはよう」と入ってくるいつもの覇気は消えていた。 (敬称略)
1968年1月7日、自衛隊体育学校の仲間と五輪勝利を願ってV字に並ぶ円谷(中央)。2日後に遺体で見つかった=白倉和義さん提供 |
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