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60年安保闘争「戦争もう嫌」 元学生リーダー・三嶋さん、回顧 - 中日新聞

1960年5月、名古屋駅前で演説する三嶋寛さん(右端)=本人提供

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警官隊と衝突した場所で、安保闘争のデモを振り返る三嶋さん=名古屋・栄で(太田朗子撮影)

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 改定安保条約発効までの激しい反対運動は「六〇年安保闘争」として知られる。戦後、わずか十五年。名古屋の学生運動のリーダーは「自分たちが戦争にかり出されるという危機感が原動力だった」と振り返る。

 一九六〇(昭和三十五)年一月十九日。条約の署名も、闘いの始まりにすぎなかった。「条約の発効には国会の承認が必要。必ず阻止できる」と信じていた。当時、名古屋大文学部の学生で、愛知県学連書記長を務めていた三嶋寛さん(81)=岐阜市=は振り返る。

 各大学を回り「多くの犠牲によって勝ち取った平和が危うくなる」と呼び掛けて自治会をまとめ、デモを組織した。反対運動のピークは、与党自民党が五月十九日、衆院で条約を強行採決してから。岸信介首相への批判も高まり、社会のムードが盛り上がった。

 「当時はどの家庭にも、近しい人の中に戦争の犠牲者がいた。イデオロギーではなく、純粋に戦争はもう嫌だという思いが、反安保運動を広げた」。三嶋さん自身、実父が戦死し、養父がシベリア抑留の経験者だった。

 記憶に残るのは、六月十一日、名古屋・栄の広小路通でのデモ。学生千五百人は警官隊と衝突。平和的な抗議が信条だったが、七十人近くが逮捕された。その後、安保条約の発効とともに、岸氏も退陣したが、三嶋さんたちの敗北感は大きかった。仲間には自殺者も出た。三嶋さんあてに「もうこれ以上はやっていけない」と遺書が残された。闘いは命懸けだった。

 六十年後のいま、日米安保体制は国民に定着するが、三嶋さんは「安保闘争に参加したことの後悔は一切ない。それだけの切実さがわれわれにはあった」と言う。二十年前まで飲食店を経営し政治活動から遠ざかったが、社会への疑問追及の気持ちは衰えない。

 昨年十一月には、米軍基地移設問題のある沖縄・辺野古にも初めて足を運んだ。美しい海を見ながら、民意が踏みにじられていることを憂えた。沖縄と本土、戦争を知る世代と知らない世代。当事者意識の差を実感した。現代の学生たちに「目の前の問題だけでなく、社会の大本にあるものにも疑いの目を向けてほしい」と呼び掛けた。

 (栗田晃)

 <日米安全保障条約の改定> 1951年にサンフランシスコ講和条約とともに結ばれた日米安全保障条約を、米国の日本防衛義務などを明記する形で全面改定し、60年1月19日に日米両首脳が署名。「米国の戦争に巻き込まれる」と反対運動が拡大し、6月15日には全学連主流派が国会に突入し、警官隊との衝突で東大生の樺(かんば)美智子さんが亡くなった。条約は参院の可決を経ずに、6月19日に自然承認された。

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